修羅の島(その五・龍驤沈没)の続き→川口支隊昭和17年(1942)8月23日から24日にかけてガダルカナル島(以下、ガ島)への増援部隊を支援する日本の機動部隊と米機動部隊との海戦が生起した(前回、第二次ソロモン海戦)
日本の輸送船団はヘンダーソン飛行場の米軍機からの攻撃をうけ頓挫、輸送は駆逐艦による「鼠輸送」と大発(舟艇)による島づたいの「蟻輸送」に頼ることになった(島づたい!!・・・)。
「蟻輸送」は川口少将(陸軍)が主張した。結局、両方の手段で増援部隊はガ島を目指した。
*大発(通称)・大発動艇
日本軍の舟艇、60馬力(ディーゼル)、艇長14m、武装兵約60名、6t程度を積載、8kt(時速14km)
9月7日までに、駆逐艦に分乗した川口支隊は一木支隊の第2梯団と共にガ島に上陸した。
別働隊の約1,000名は川口少将の主張した「蟻輸送」で60隻の大発に分乗、島づたいにガ島に向かったが米機の空襲などで分散状態になり、本隊とは反対のヘンダーソン飛行場の西側にたどり着いてしまった、
駆逐艦に分乗した本隊も米機の空襲のため、揚陸できた重火器は高射砲2門・野砲4門・山砲6門・速射砲14門だった。
8月19日の一木支隊第1梯団上陸以来のガ島上陸だった(一木支隊第1梯団はすでに壊滅している)。
上陸した川口支隊の兵士の話、
「わたしたちを出迎えたのは一木支隊第1梯団の生き残りでした。痩せ衰えたヨボヨボの連中が杖にすがって、なにか食うものをと手を出しましてね。米をやると、ナマのままポリポリかじるんです。『ワシらが来たけん、もう安心バイ』と言ったのですが、十日もたたんうちに、自分たちがおなじ姿になるとも知らんで・・・」
彼らは20代~30代の若者である。
川口支隊は、一木支隊壊滅の結果から、飛行場の背後に迂回してジャングルから飛行場を攻撃する作戦をたてた。
しかし、地図はなく、険しい山岳地のジャングルに進撃路を切り開くために工兵部隊はつるはしやスコップによる人海戦術で道を作ろうとしたが、重火器や砲弾の運搬は不可能だった。
それらの大部分は後方に取り残された。また、この作業により兵は疲労困憊した。
(出来ないことは出来ないのだ)
9月12日午後8時を期して、中央隊3個大隊、左翼隊(舟艇機動の第124連隊第2大隊)、右翼隊(一木支隊の残存集成部隊)が同時に米軍陣地を攻撃するとしたが、移動は困難を極め、夕方までに攻撃位置につけたのは中央隊の一部だけであった。
同日の夜、川口支隊支援のために軽巡「川内」、駆逐艦「敷波」、同「吹雪」、同「凉風」がルンガ泊地に突入、砲撃を行った。
12日夜、総攻撃がはじまるが各部隊バラバラの攻撃になった。川口支隊の左翼隊は米軍の集中砲火をうけ前進を阻まれ、各隊は散発的な戦いに終始した。
そのなかで13日の夜半から14日の未明にかけて、中央隊左翼の青葉大隊の一部と中央隊右翼の国生大隊が合流して米軍の第一線を突破、1個中隊がムカデ高地からヘンダーソン飛行場南端に達したが、攻勢はそこまでで日本軍は退却した。ヘンダーソン飛行場奪還は失敗した。これを米軍は「血染めの丘の戦い」と呼んだ。
川口支隊の戦死者、行方不明者は約700名、以前に壊滅した一木支隊第一梯団と比べれば損耗率は低かったが、激戦となったのは中央隊の2個大隊だけだった。
退却した日本軍は再起を期してアウステン山からマタニカウ川西岸にかけて負傷者を含めた5,000名余りが駐屯することになり、補給不足が深刻化していく。
約5,000名の食料、医薬品、武器、弾薬の補給を貧弱な搭載力しかない駆逐艦輸送にたよることになった。「餓島」の様相を呈することになっていく。飢餓の「餓」だ。
9月23日から9月27日の間に、マタニカウ河東岸に駐屯する川口部隊に対し米軍は舟艇による逆上陸を含む攻撃を行うが、川口部隊の第二大隊・第三大隊に撃退された、
1,川口支隊はジャングル(山地)に迂回して飛行場奪還を目指す作戦だった。
前人未踏(おそらく)のジャングルを重火器(大砲など)を運べると思ったのだろうか?人がわけいるだけでもムズカシイほどのジャングルだったのだろう。
何千もの軍隊が大砲や弾薬とともに移動できるものなのか?現地住民に問いたりしなかったのだろうか?
それが出来ないのなら想定進撃路を踏破可能なのか偵察しなかったのだろうか?素人でもそれぐらいは考えると思うのだが、
「為せば成る」の精神だったのだろうか?「神(天皇)の軍隊に不可能はない」と思ったのだろうか?
1,例によって情報力不足、川口支隊より装備も戦力も勝る米軍(兵の数だけでも約4倍)に、米軍の制空権下、重火器もなく、道の整備に疲れきった兵で、頼むは「バンザイ突撃」、川口支隊の攻勢は挫折するべくして挫折した。
甘くみていたのだジャングルも米軍も。一木支隊第一梯団を約1日の戦闘で壊滅させたぐらいなのだから、敵は極めて強力と思わないほうがオカシイ。
おそらく軍中央も川口支隊も敵情収集に努力することもなく、「やってみなければわからない」式の行き当たりばったりの作戦だった(ボクの想像)
1,そもそもだが海軍のガ島の飛行場建設事態が無理筋だった。日本軍は攻勢終着点を見誤ったのだ。
「補給線が伸びきったところをタタく」、8月7日の米軍のガ島上陸は戦略の定石どおりだった。
さらに遡れば、巨人アメリカに貧乏日本がナゼ戦争をしかけたのか?(やらざるをえなかったのか?)、なぜタカ派が優勢になったのか?時の政府はどう国民を誘導したのか?
「勇ましい」をもてはやす世相があった、マスコミはどう同調したのか?
「伊26」潜水艦「第二次ソロモン海戦」が生起した昭和17年(1942)8月23日、「伊26」潜水艦(艦長、横田稔中佐)は警戒配備地点に到着した。
第六艦隊の潜水艦部隊はガ島の東南東、約260海里に散開して哨戒任務についた。
米軍の基地があるエスピリット・サント島とガ島の間を行動するであろう米艦隊を狙うのが目的だった。

8月25日~31日、空母、戦艦を含む米機動部隊を発見するも、米戦艦「ノースカロライナ」が「伊26」をレーダーで探知、駆逐艦「ファラガット」を制圧に向かわせたが「伊26」はなんとか逃れた。
3時間後、伊26は再度浮したが、もう敵影はなく移動しようとした刹那、距離23000mに煙突の先端を発見した。それは米空母「サラトガ」の巨大な煙突だった。「大きなガスタンクが見えた」と艦長は言う。
水平線上の艦影はまず上部構造物が見える。
「伊26」は潜航するが、攻撃位置への移動に失敗→その後、サラトガはコースを変更、サラトガの右舷横1000mの好射点につくが魚雷の発射準備が完了していなかったため失敗。
「伊26」は米機動部隊の輪形陣の外側の位置まで接近していた、「発射管、用意急げ」→「用意」→米駆逐艦「マクドノー」が「伊26」を発見する→「てっ!」「急速潜航、深度100!」

「マクドノー」から約10mの位置から「伊26」は距離3500mで6本の酸素魚雷を発射、命中の可能性ギリギリの射角からの発射だった。
発射した魚雷は1本は舵が故障。4本は「サラトガ」の回避行動によって外れたが、1本が右舷バルジ後部に命中した。
「伊26」は米駆逐艦3隻の爆雷攻撃を受け轟音と激震のなか深度60で「カーン」という乾いた命中音を聞いた。そういう音がするという。
「伊26」は米駆逐艦の執拗な制圧を逃げ切った。
命中魚雷は1本だけだった。「サラトガ」は満載排水量37000tの巨艦だ(太平洋戦争中、最大の米空母)。「サラトガ」は電気推進システム機能を喪失して航行不能におちいった。
重巡「ミネアポリス」に曳航され退避した。また指揮官のF.J.フレッチャー中将を初めとする幕僚や乗組員の多数が死傷、
その後3か月にわたって「サラトガ」は作戦行動は出来なかった。のるか反るかのガ島攻防戦のなか、痛い!
それは川口支隊がガ島を目指して移動中の出来事だった。
横田稔中佐のこと岡山県出身、海兵51期、このとき39歳。
第五十二潜水隊司令で終戦を迎えた。昭和20年10月、横田は復員輸送艦「鹿島」の艦長となり復員輸送に従事。
その後、神奈川県で高校教師を務め、キリスト教に入信、宣教師となった。「戦争の虚しさをつくづくと感じ、悔い改めようとした」と話したという。
高校教師としては生徒達から人気があったようで、「艦長」と呼ばれ慕われたという。晩年はわからない。
真珠湾攻撃の攻撃隊総指揮官、淵田中佐も戦後、キリスト教に入信し宣教師となっている。二人に関係があったのだろうか?
悔い改めるにはキリスト教が適しているのだろうか?
そして、「伊19」潜水艦ガ島で川口支隊の総攻撃が挫折した三日後、
昭和17年(1942)9月15日、9時50分、潜航中の「伊19」潜水艦の水中聴音機が「感三」を示した。集団音である。敵艦隊だ。
10日前から数回、敵艦隊を発見するも攻撃には至らなかった。潜水艦の襲撃には運が強く作用する。
艦長の木梨鷹一中佐は「潜望鏡深度」に艦を上げ。潜望鏡で見まわしたが何も見えなかった。
1時間後、もう一度、潜望鏡を露頂してみた、「いた!」敵機動部隊だ。距離15000m、艦内の空気が緊張感をともないサッと変わった。
「伊19」は静かに敵艦隊に接近する、潜水艦の水中速力は遅い、条件が整わなければ捕捉することはムズカシイ。暑い(艦内は40度を超す)。
幸運にも敵空母は二度の変針で「伊19」に近づいてくる。それは探し求めた米正規空母だ。
距離900m方位角右50度、絶好の射点だ、「てっ!」、11時45分。炊事班は赤飯の缶詰を開ける・・・
<イラストは有名な?断末魔の空母「ワスプ」の写真を参考にした。この写真を初めて見た時、炎上して崩れ落ちる城のようだとボクは思った。>6本の酸素魚雷は雷跡もなく疾駆する。「カーン、カーン、・・・」、潜航中に澄んだ命中音を4度聞いた。
4本命中である。乗員はこぶしを握る。無音潜航中なのだ。
数隻の米駆逐艦の怒りの爆雷攻撃を受ける。「伊19」は米空母の航跡の下に隠れやり過ごす。再浮上したのは約8時間後だった。
その空母は「ワスプ」だった。命中は3本だったという。命中から15分後にガソリンタンクに引火爆発、手の施しようがなくなり5時間後に沈没した。「伊19」の幸運は続く、
放った6本の魚雷のうち「ワスプ」をはずれた残り2本はそのまま航送、10000m離れた空母ホーネットを中心とする第17任務部隊の戦艦「ノースカロライナ」と駆逐艦「オブライエン」にそれぞれ1本が命中した!
なんと、発射した魚雷の6本中、5本が3隻に命中したのだ!
「ノースカロライナ」は修理に3か月を要する損害、「オブライエン」は、修理のために本国に回航される途中、竜骨が折れて沈没した。
普通、潜水艦の戦果は確認がムズカシイが、隣の地域を哨戒していた「伊15」潜が確認していた。「伊19」の幸運につぐ幸運だった。木梨鷹一中佐は一躍、日本海軍潜水艦部豚のエースとなった(ボクの想像)。
木梨鷹一(きなし たかかず)中佐のこと大分県出身、海兵51期、卒業時の席次は最下位だったという。空母「ワスプ」を撃沈したとき40歳。
昭和19(1944)年7月、「伊29」でバシー海峡通過中、敵潜水艦の攻撃を受け沈没、戦死した。
「遣独潜水艦」として長駆、ドイツへ行った帰りであった。
空母「ワスプ」を撃沈したときの「伊19」の乗員で戦後まで生き残ったのは十数名だといわれる。「伊19」の乗員は約95名だ。
木梨鷹一中佐は写真で見ると役者顔だなとボクは思う。
<木梨鷹一中佐が戦死したときの「伊29」潜水艦>1,「敵主力艦の雷撃」を任務とした日本の潜水艦作戦(間違ってはいたが)のなか、今回の「伊26」「伊19」の雷撃は頂点と言っていいだろう。この時点で稼働出来る米正規空母は「ホーネット」のみとなった、「エンタープライズ」は第二次ソロモン海戦での被弾を修理中だ。日本側は「翔鶴」「瑞鶴」が健在、改造空母も戦列に加わろうとしていた。米軍はヘンダーソン飛行場の航空隊を増強してこれを補おうとした。
1,日本海軍の想定していた対米作戦は 太平洋を押しわたってくる米主力艦隊を内南洋(サイパン島以西)で連合艦隊(戦艦部隊)で迎え撃ち砲雷戦でこれを撃破する、というものだった。
日露戦争の「日本海海戦」の大勝利を再び夢見たのだろう(ぼくの想像)。
「日本海海戦」は列強の海軍に大きな影響を与えたが、とりわけ日本海軍には強かったと思われる。東郷は神になったのだから(東郷神社)。
日本海軍の艦艇のほとんどはそのために建造された。例えば駆逐艦は対主力艦攻撃に偏っていたので対空、対潜能力は米駆逐艦より低い。
潜水艦の任務は主力艦隊の露払いとして主力艦隊の前面に散開、好機をとらえて米主力艦隊を魚雷で攻撃、その戦力を削ぐ、というものだった。
空母艦載機、水雷戦隊、潜水艦による漸減作戦によって米主力艦の勢力を削いでおいて艦隊決戦に持ち込む、というものだった。
1,日本の潜水艦は敵主力艦を雷撃するのを主目的とした。輸送船などを狙うのは二の次だった。
すなわち日本海軍は潜水艦戦略を間違えたのだ。
第一次世界大戦ではドイツのUボートによる通称破壊戦が猛威をふるった。
Uボートの作戦は 敵国の輸送船を沈めること、軍艦は二の次であった。速度が速く俊敏な軍艦は捕捉がムズカシイところえきて対潜能力をもつものもある。潜水艦にとって手強い(危険)相手なのだ。
当時の潜水艦の第一の任務は通称破壊なのだ。補給線を断つことこそが効果的な作戦だった。
第一次世界大戦でのUボートの活躍を日本海軍が知らないはずはない。
それなのに上記の理由で日本海軍は困難な主力艦攻撃を潜水艦の第一の任務とした。
おかげで規模のわりには日本潜水艦部隊の活躍はふるわなかった。
1,当時の潜水艦は潜水することも出来る水上艦艇だ(現在の潜水艦は潜水状態が優先された構造)。
主に夜にディーゼル機関で水上航行をして電池に充電、日中は主に潜航、充電した電池で水中行動する。
「伊26」「伊19」は潜水艦部隊の中核をなした乙型潜水艦だ。23,6ノット(時速44km 水上)、8ノット(時速14km 水中)。水上速力は低速の戦艦ほどの速さがあるが、その代わり潜水艦の絶対性能の隠密性に難があった、
ドイツのUボート乗員が音の大きさに驚いたという話がある。日本潜水艦の短所だった。
戦争後半になるとUボート対策で進化した米英の対潜能力に日本の潜水艦は対抗できず、抑え込まれた。
日本海軍の約120隻もの潜水艦が帰ってくることはなかった。
1,潜水艦の乗員はスグに判るという。機械油のような特有の匂いがするという。密閉された狭い館内で長期間の潜航では空気はよどむ。体に匂いがしみつくのだろう。
乗員は閉塞恐怖症では務まらないのは当然として、忍耐力のある優秀な人材があてられたという。(ボクはご免こうむりたい。)
いったい、こういう死をも恐れぬ精神状態にボクは興味がある。「こころよく 我にはたらく仕事あれ それを仕遂(しと)げて死なむと思ふ」石川啄木の歌だ。
1,駆逐艦は大型の戦艦や巡洋艦に比べると家族的空気感があったという。潜水艦の一蓮托生感はさらに強いだろうから、条件が良ければ強い家族的空気感があったと想像している。そうであれば過酷な任務へのせめてもの慰めだ、
修羅の島(その七・ワレアオバ)に続く→
- 2023/11/21(火) 08:33:48|
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「来ないでください」と叫んでも、来ちゃう街。
「来てくださ~い」と声をかぎりに叫んでも、来ない街。
ということで、
修羅の島(その四・壊滅)の続き→昭和17年(1942)8月8日~9日の「第一次ソロモン海戦」でガ島近海を警戒をしていた巡洋艦部隊が大損害を被ったため、連合軍の輸送船団はガダルカナル(以下、ガ島)への物資の揚陸を中止、米海兵隊を残して撤退した。
補給が再開されるまで海兵隊は1日2食に制限された。もし補給が途絶えた場合ははゲリラ戦を展開するつもりだったという。
約10000以上の米海兵隊はスグに飢えることになっただろう(ボクの想像)。
一木支隊第一梯団は8月16日にガ島上陸。続いて川口支隊(約4,000)+一木支隊第二梯団(約1000)の輸送作戦が始まった。
日本海軍は第二艦隊と第三艦隊を出動させて輸送作戦を支援することにした。
8月20日、「敵空母見ゆ」との報を受け、輸送船団を後退させ、航空優勢を確保するため、ミッドウェー海戦の痛手からようやく再編成なった虎の子の機動部隊(第三艦隊)を南下させた。
同日、トラックにあった第二艦隊も出撃、さらに戦艦「陸奥」も第2駆逐隊(村雨、五月雨、春雨)のトラック島到着を待って出撃した。
*トラック諸島:中部太平洋における日本海軍の根拠地。グアム島の南、世界最大級の環礁がある。
*第三艦隊(機動部隊、南雲忠一中将指揮)
旗艦、空母「翔鶴』+同『瑞鶴」+小型空母「龍驤」+護衛部隊と、
第十一戦隊(戦艦、比叡、霧島)・第七戦隊(重巡、鈴谷、熊野)+第八戦隊(重巡、利根、筑摩)などのの前衛部隊。
この時点で日本の空母戦力の全力に近い。
日本の空母は「飛龍」で一応の完成をみたが、これを大型にしたのが「翔鶴」と同型艦「瑞鶴」だった。
開戦直前に2隻が完成して、真珠湾攻撃の目途がたったといわれる。
昭和17年8月時点で日本空母のなかで最大。「翔鶴」と『瑞鶴』は太平洋戦争後半、日本の機動部隊の中核をなした。
日本の空母中のベストの評価がある。
<空母「翔鶴」諸元>
基準排水量:25,675t
最大速力 34.2ノット(時速64km)
日本海軍艦艇のなかで最大馬力だった。(大和型を凌ぐ)
航続距離 18ノットで9,700海里
乗員 1,660名
搭載機 約80機(補用を含む)
空母「翔鶴』は珊瑚海海戦での修理を終え21号電探(レーダー)を装備していた(遅ればせながら)。米軍のレーダーより性能は劣っていたのだろう(ボクの想像)
(レーダーはイギリスが世界をリードしていた、当然、同盟国のアメリカも)
第三艦隊は輪形陣(空母を円形に囲む陣形)ではなく、前衛部隊は空母部隊から100海里(185km)~150海里前方に進出して横陣をとって敵機の索敵と攻撃を吸収する役割を担い、
空母部隊はその後ろから縦に連なって続いた。T字の陣形だった。
前衛部隊から「我々は囮か?」という不満がでたが、ミッドウェー海戦の敗北から日本海軍がひねり出した必勝を期した陣形だったのだろう。
空母部隊将兵には「ミッドウェーの仇討ち」の思いがあったと思われる。
*第二艦隊(近藤信竹中将指揮)
輸送船団を支援する重巡5隻+戦艦「陸奥」+水上機母艦+水雷戦隊(軽巡と駆逐艦)
第61任務部隊一方、米軍もガ島支援のためガ島東方海域にF・J・フレッチャー中将指揮の第61任務部隊(空母を主力)を遊弋させていた。
空母「サラトガ」+同「エンタープライズ」+同「ワスプ」+新型戦艦「ノース・カロライナ」+重巡8+軽巡4+駆逐艦10
8月20日に発見された米空母はガ島のヘンダーソン飛行場に航空機輸送任務の護衛空母ロングアイランド+護衛の小部隊だった。
F4F戦闘機19機、SBD艦上爆撃機12機を飛行場に送り込んだ。翌日にガ島の一木支隊を空襲した。
8月21日以降ラバウルの基地航空隊は20日に発見した米空母(護衛空母ロングアイランドのこと)を攻撃するため連日出撃したが成果はなかった。
同日、先にガ島に上陸していた一木支隊第一梯団はイル河渡河を試みるも強力な米軍との戦闘で壊滅した(前回)。確認できたのは25日。
同日、退避中の日本の輸送船団は第二・第三艦隊の支援をうけて反転、再びガ島を目指した。
原艦隊を分派→8月24日午前2時、陸軍の上陸支援のため第三艦隊から小型空母「龍驤」+重巡『利根」+駆逐艦2隻(原忠一少将指揮)を分派してガ島攻撃に向かわせた(便宜上、原艦隊とする)。このまま原艦隊の動向を続ける。
同日、7時5分、米軍のPBY飛行艇が原艦隊を発見する。
10時20分、第三艦隊から飛び立った偵察機からの敵空母発見の報告はなかったので、空母「龍驤」は零戦15機、爆装の九七式艦上攻撃機6機からなるガ島攻撃隊を発信させ、北方へ退避した。米機の執拗な触接が続いていたからだ。
11時45分、米空母「サラトガ」からSBD30機、TBF艦上雷撃機8機が空母「龍驤」攻撃に発進する。第61任務部隊の指揮官フレッチャーは他にも日本の空母がいると思っていたので攻撃隊はサラトガ隊だけだった(ボクの想像)。
12時30分頃、『龍驤」の攻撃隊はガ島に接近、ヘンダーソン飛行場から飛び立ったF4F15機の迎撃を受け、3機を撃墜するも零戦2機、九七艦攻3機の損害を受けた。
<爆撃をうける空母「龍驤」>13時57分、「サラトガ」の攻撃隊が「龍驤」を捕捉、至近弾数発、魚雷1本(異説あり)を受け「龍驤」は航行不能。
18時ごろ、「龍驤」沈没。
空母『龍驤」はもろかった。巡洋艦の艦体に大きな箱状の格納庫を乗せたのでトップヘビーで復元力に難があったのではないだろうか?(ボクの想像)。
およそ、日本の軍艦はアメリカに比べるともろい。数的劣勢を克服するため攻撃に偏った(用兵側が要求した)設計によるものなのだろう(ボクの想像)。
第三艦隊主隊(南雲部隊)の動向→8月24日午前2時、第三艦隊(日本)は原艦隊を分派してガ島攻撃に向かわせた(上記)。
同日、4時15分、第三艦隊の主隊の空母「翔鶴』と「瑞鶴」から九七式艦上攻撃機19機からなる索敵機を出すも敵発見はなかった。
12時過ぎ、重巡「筑摩」の水上偵察機2号機が米空母を発見して消息をたった。敵戦闘機に撃墜されたのだろう。
12時30分、空母「エンタープライズ」の偵察機が南雲の主隊を発見、指揮官のフレッチャーは空母『龍驤」に向かった攻撃隊に目標の変更を命じたが電波状況が悪く命令は伝わらなかった。
12時55分、米空母発見の報に第三艦隊主隊は関衛少佐率いる零戦13機、九九式艦上爆撃機27機の第一次攻撃隊を出撃させた。
14時28分、日本側の第1次攻撃隊が米艦隊を捕捉、攻撃する。F4F戦闘機53機(35機という説あり)からなる迎撃、激しい対空砲火によって大損害を受けながらも空母「エンタープライズ」に250kg爆弾3発を命中させた。
F4F5機を撃墜したが零戦9機、九九式艦爆18機が失われた。損害は甚大だった。迎撃したF4F戦闘機は護衛零戦隊の約4倍である。
<攻撃をうける空母「エンタープライズ」 左上>以前から攻撃隊の制空戦闘機(護衛)を増やすよう意見具申があったが、取り上げられなかったようだ。
レーダーの性能で勝る米機動部隊は日本の攻撃隊の接近方向に直衛戦闘機隊を誘導し集中させたのだろう(ボクの想像)
また、戦訓から米側の対空砲火は一段と強化されていた。
空母「エンタープライズ」は炎上するも消化作業で鎮火させ退避した。米艦艇のタフさとダメージコントロールの優秀さだった。
14時すぎ、空母「瑞鶴」から第2次攻撃隊、高橋定大尉:指揮、九九式艦爆27、零戦9を発進させたが、米機動部隊を発見することができなかった。
フレッチャーは無傷だった空母「サラトガ」より雷撃機TBF5機、急降下爆撃機SBD2機を戦闘機の護衛なしで発進させたが、発見できたのは第二艦隊(近藤艦隊)だった、水上機母艦「千歳」小破。
攻撃隊を収容した米機動部隊は中破した空母「エンタープライズ」とともに南方に退避した。
南雲の第三艦隊は米空母の位置がつかめず、また艦載機の消耗が大きく第三次攻撃を諦め北方に退避した。
8月24日、22時、第二艦隊は米機動部隊に夜戦をしかけるべく南下したが、発見できず撤収した。この時、戦艦「陸奥」は高速の重巡部隊に付いて行けず取り残されたという。
この戦いを
「第二次ソロモン海戦」という。
8月24日~25日深夜、駆逐艦睦月、弥生、江風、磯風、陽炎はヘンダーソン飛行場に艦砲射撃を行い、その後に輸送船団と合流。
8月25日午前6時、「第二次ソロモン海戦」で米空母二隻を撃破したとの報告(過大報告)に輸送船団はガ島を目指すが、ヘンダーソン飛行場より飛来したSBD18機の空襲を受けて軽巡「神通」が中破、輸送船「金龍丸」が撃沈され、
さらに駆逐艦「睦月」はB-17、4機の空襲をうけて撃沈された。船団はガ島上陸を中止、撤退した。ガ島近辺の制空権は米側が握った。
1,戦略的にはガ島への増援部隊の輸送が出来なかった日本側の失点だった。
1,戦術的にも日本側は小型空母「龍驤」+輸送船1隻+駆逐艦各1隻、沈没、軽巡「神通」中破。米側は空母「エンタープライズ」中破、で米側に分がある。
日本側の艦載機59機が失われた(半分は龍驤の)。ハワイ以来の搭乗員も含まれていたのだろう、これは痛い。
空母の艦載機搭乗員の練成は時間がかかる。航空機の補充も米側より劣っていた。
1,分派された原艦隊が米空母の攻撃隊を引き受け、囮になる形になった。第三艦隊がそう意図したのだろうか?
1,ヘンダーソン飛行場が機能してガ島周辺の制空権を確保した連合軍は、南から日中に輸送船団を送り込むようになる。
一方、日本軍は今回の失敗から輸送船による補給を諦め、夜間の駆逐艦による輸送に頼るようになった。通称「ネズミ輸送」である。米軍は「トーキョーエクスプレス」と呼ぶことになる。嘲笑の意味もあったのだろう。
輸送船団と駆逐艦によるネズミ輸送とでは大差がある。日米の戦力差は開いていく。
「素人は戦闘を語り、玄人は兵站を語る」。
1,日本の第三艦隊は空母とその艦載機を主戦力と位置づけた本格的な機動部隊だった。ということは、それまでは空母は戦艦などの補助的兵器という認識だったのだ。
昭和17年後半の時点で空母を主戦力と位置付けたのは日本とアメリカだけだろう。
さらに複数の正規空母を集中使用してその威力を証明したのは、他ならぬ日本海軍だった。ドイツが先鞭をつけた機甲師団による電撃戦とならぶ戦術的革新だった。
1,日本の第三艦隊はミッドウェー海戦の教訓から位置の秘匿に努めた(無線封鎖など)、第三艦隊の前衛部隊が知らない間に後続の空母部隊が反転して前衛部隊が取り残されるなど連携がとれていなかった。
第二艦隊は第三艦隊の位置も戦況もつかめていなかったというから、日本の艦隊はバラバラに行動していたのだろう。
南雲の第三艦隊と近藤の第二艦隊は情報交換・戦術のすり合わせを一度も行ったことがなかったという。
どうなっていたのだろうか?
1,日本の攻撃隊は零戦+99式艦爆(複座)のみでで97式艦攻(雷撃機、三座)は参加させていない。
敵戦闘機の迎撃をうけると鈍重な97式艦攻は損害が増えるので、まず身軽な艦爆で米空母の飛行甲板に命中弾を与え、艦載機の発艦を出来なくしてから艦攻で攻撃する作戦であったという。
手探りだった空母対空母の戦いは、「珊瑚海海戦」「ミッドウェー海戦」を経て、敵より早く発見をして敵より早く攻撃をして空母の飛行甲板を使用不能にすることが先決、ということがわかってきた。
1,第三艦隊を率いたのはミッドウェーで大敗した南雲中将だ。GF長官、山本五十六が「ミッドウェーの仇討ちをさせてやろう」として南雲に任せた、という説がある。
「失敗したから今度はうまくやるのでは?」という山本の思いだったのかな?とも思うが、日本的温情人事だとボクは思う。普通なら更迭だろう。
南雲の専門は水雷戦隊(駆逐艦部隊)だ。真珠湾攻撃の司令官を命じられたときも乗り気ではなかったという。海兵卒の席次で決まったという説がある。
次回、「修羅の島(その六・雷撃)」に続く→
- 2023/10/31(火) 08:00:14|
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夏、お気に入りの散歩コースを歩く。
小川の土手、幅2~3mほどの土の道、反対側は森、人はいない。
すると向こうから木漏れ日のなか、道の真ん中を何かがやってくる。
地面から1.5mほどの高さを真っすぐにやってくる。
鬼ヤンマだ。威風堂々!
「そこの町人、ひかえい!」
「ははぁ、ははぁ!」と道の端にひかえると、ボクの目の前を、道のど真ん中を、地上1.5mほどを、
「緑の目、黄色と黒の縞々」が音もなく飛んでいく、大きい!戦艦だ!
昆虫世界の王者に君臨しているのだろう。
人間を恐れていないようだ。ボクに一瞥もくれずに飛んでいった。
いや、一瞥をくれたかもしれないが複眼だからわからない・・・
ということで・・・
昭和17年(1942)8月8日~9日の「第一次ソロモン海戦」で三川艦隊はガダルカナル島(以下、ガ島)沖の連合軍上陸部隊を支援していた巡洋艦部隊を撃破した(前回)。
戦果報告は2倍~3倍に膨らんだ。夜戦の戦果確認はムズカシイ。
さらに8月7日~8日のラバウルの陸攻隊の攻撃も「敵輸送船を数十隻撃沈」という過大な戦果報告が上がっていた。
実際は駆逐艦2隻中破~大破、輸送船1隻沈没、同1隻大破。
この後も日本軍は過大な戦果報告や誤情報を額面通りうけとり失態をくり返すことになる。
大本営はここで陸軍の一木支隊+川口支隊+海軍横須賀第五特別陸戦隊、をガ島送り込めば奪還できると判断した。
誤情報+貧弱な情報分析+手前都合の作戦だった。
1.一木支隊と川口支隊は陸軍。海軍横須賀第五特別陸戦隊は海軍の陸上戦闘部隊。
1,この奪還作戦を海軍は第二艦隊と空母「翔鶴」「瑞鶴」「龍驤」を主力とする第三艦隊で支援する。
1,もし敵空母が現れたら第三艦隊が攻撃する。もし敵空母が現れない場合はガ島を空襲する。
*支隊:特別の作戦任務に基づいて、一時的に本来の指揮系統から独立して行動する部隊。規模は大隊級から旅団級まであった。
横須賀第5特別陸戦隊の先遣部隊は駆逐艦により8月16日に上陸に成功して設営隊(ヘンダーソン飛行場の西側に退避していた)などと合流。
二日後の8月18日、支隊長、一木清直大佐率いる一木支隊の第一梯団(支隊本部を含む、約半分)は駆逐艦に分乗してガ島のタイボ岬に上陸した。連合軍のガ島上陸から11日後だった。
「第一次ソロモン海戦」の結果、ルンガ沖の米艦隊が一時いなくなったので陸戦隊と一木支隊第一梯団は上陸できたのだろう(ボクの想像)
一木支隊第一梯団は1個大隊程度の戦力だった。兵916名、軽機関銃36、擲弾筒24、重機関銃8挺、歩兵砲2門。
駆逐艦で運べることが出来るものはしれている。
一木支隊は2か月前のミッドウェー攻略作戦の上陸部隊だった。上陸作戦の訓練を受けていたのだろう(ボクの想像)。
*歩兵砲とは分解して10名ほどで運搬可能な車輪付きの小型の大砲。砲身が短く命中精度が悪く発射音が大きいオモチャのような砲だったという。
日本陸軍は人力で運搬可能な小型な砲を装備させた。牽引するトラックなどの機械化がされていなかったからだ(ボクの想像)
大砲はひとしきり射撃をすると移動させなければならない。敵がその位置を測定して砲撃してくるから。
一方、川口支隊と一木支隊第 二 梯団が分乗した駆逐艦による輸送は、28 日にガ島上陸の計画だったが、米軍機に妨害されて失敗した。
この時点で上陸できたのは一木支隊の第一梯団と横須賀第5特別陸戦隊の先遣部隊だけだった。
一木支隊(大本営も)が得ていた敵情は「兵2000程度、連合軍の目的は日本側が設営していた飛行場の破壊で現在は撤退中」というものだった。
すなわち「撤退中の敵兵をガ島から追い落とせ」ということだったのだろう。
実際は兵10000以上、撤退などしていない。質量ともに日本軍を大きく上回る兵器と装備だった。
日本軍の貧弱な情報収集能力と分析力だ。日本軍は情報収集と補給を軽視する傾向があった。戦闘重視に偏っていたのだ。
「素人は戦闘を語り、玄人は兵站を語る」・・・この言を借りれば日本軍は素人っぽい軍隊だった。
一木支隊の上陸したタイボ岬は連合軍が奪取した飛行場の東側にある。
一木支隊は夜間に海岸線を西に向かって進む。
米軍はタイボ岬に上陸した日本軍は陸軍部隊ということをつかんでいた。
米軍はヘンダーソン飛行場の東、約3kmのイル川の防備を固めていた。
8月20日、一木支隊はイル川に到達して渡河を試みるが、想定外の強力な敵にぶつかった。

それは、37ミリ対戦車砲、75ミリ榴弾砲、105ミリ榴弾砲など強力な砲兵に援護された機関銃座陣地だった。
一木支隊は最初の攻撃で100名余の損害を出して一旦攻撃を中止するが、1時間後、同様の白兵攻撃を行い200名を越す損害を受ける。
日本陸軍得意のバンザイ突撃だったのだろう。
さらに敵の迫撃砲は苛烈を極め、一木支隊の一部の将校が後退することを具申するが、一木大佐はこれを却下、攻撃続行を命じた。
翌8月21日、夜が明けると敵機が飛来する(前日の20日、ヘンダーソン飛行場にF4F戦闘機とSBD艦爆が進駐していた)。
陸上では海兵隊第1連隊がイル川を越えて迂回攻撃をしかけてきた。一木支隊は包囲され追い詰められた。
午後になると米軍はM3軽戦車6両を投入、肉弾攻撃以外に戦車にたいして有効な手段をもたない一木支隊は蹂躙され、殲滅された。
<M3スチュワート軽戦車:一木支隊を蹂躙した。軽戦車だが日本陸軍の主力戦車、97式中戦車(日本陸軍では中戦車)と総合能力は互角だったという>一木支隊は死者だけで777名、米軍は約40名、と言われる。一木支隊は85%に及ぶ戦死者を出した(+負傷者だ)。
支隊長一木大佐はこの日の戦闘で行方不明、戦死したと思われる。
戦闘開始直前に総員背嚢遺棄(身軽にするため)が命じられたため、一木支隊の残存兵は早くも飢餓に悩まされるようになった。
1,日本陸軍は旧式な軍隊だった。将校が軍刀をさげているのが象徴的である。
日露戦争当時とさして変わらない軍隊だった。兵器や装備は米英独ソに比べると質量ともに劣った。
1,不正確な敵状判断→貧弱な装備、劣った兵器→滞る補給→バンザイ突撃頼みの根性主義・・・
これでは兵は哀れだ(哀れというレベルを超えている)。日本軍は恐ろしい軍隊(日本兵にとって)だった。
これを書いていると情けなくなる。根性主義は今でもある(ご存知のように)
1,平和時に列強に駐在した武官は演習を見ることが許されるが、武官はいったいなにをみていたのだろう?
1,「無敵関東軍」と豪語した日本陸軍は1939年5月(太平洋戦争の2年前)陸軍の仮想敵国であるソ連軍とノモンハンで衝突した。
日本陸軍渾身の砲撃戦(かき集めた大砲)や戦車戦では質量ともにソ連軍に圧倒された。その反省と研究はどうなっていたのだろうか?
日本のエリートである上級将校はなにをしていたのだろうか?
1,日本陸軍の指揮官は陸士(陸軍士官学校)を卒業している。
陸士といえば海兵(海軍兵学校)とともに軍の指揮官や指導者をを養うエリート教育機関(超難関校)だ。
『孫子』を学んだと思うが、素人でも知っている「我を知り敵を知れば百戦危うからず」を学ばなかったのだろうか?
指揮官や指導者は勉強が出来るだけではダメだ、もうひとつモノサシがいる、とボクは思う。現在でも。
1,金がないから兵器の研究や近代化が進まず、だから精神主義にたよりバンザイ突撃を切り札にしたのか?バンザイ突撃を重視したから兵器の研究、近代化を疎かにしたのか?
一体、陸軍の予算配分はどうなっていたのだろう?
バンザイ突撃は自軍に多くの戦死者が出るのを前提とした戦法だ(戦法と呼ぶのも恥ずかしい)。
戦時中のスローガン「生めよ増やせよ」の恐ろしさを思う。
いやな言い方だが、兵ひとりの価値(値段)の低い軍隊は結局弱い。
1,例えば、歩兵が携行する軽量の短機関銃(マシンガン)を日本陸軍は装備させることをしぶったという。(昭和19年(1944)後半になってようやく少量が装備された)
理由に「短機関銃は弾丸の消費量が多く、補給が追いつかなくなるから」という、なんともはやである。日本は貧しかったのだ。
1,陸軍のそういう体質を憂えていた上級将校もいたと思う(思いたい)。
しかし、組織の論理や存続を優先し、空気を読み忖度をし、同町圧力に屈したのだろう(ボクの想像)。
海軍の戦いは技術(テクノロジー)の戦いだという。36サンチ(センチ)砲装備の戦艦と20サンチ(センチ)砲装備の巡洋艦が遭遇して主砲で打ち合った場合、巡洋艦の勝ち目はまずない。
巡洋艦の射程圏外から一方的な砲撃をうけることになる。根性(精神主義)ではなんともならない。
次回<その五・龍驤沈没>に続く→
- 2023/10/10(火) 08:18:47|
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田中圭と星野源の区別がつかない。蒼井優と黒木華の区別はつく・・・
ということで前回の続き→昭和17年(1941)8月7日~8日、ラバウルからのガダルカナル(以下ガ島)泊地の連合軍陸上陸部隊への陸攻隊の攻撃はダメージを与えることは出来なかった(前回の記事)。
同日(8月7日)、日本海軍の水上部隊も反応する。第八艦隊司令部はラバウル近海の作戦可能な艦艇を集めて艦隊を編成した。通称、三川艦隊(三河軍一中将指揮)。
旗艦は重巡『鳥海』、同「青葉』、同「衣笠』、同「加古』、同「古鷹』、軽巡「天竜』、同「夕張』、駆逐艦「夕凪』、の計8隻、
どちらかと言えば旧式の艦艇で構成されていた、
*重巡(重巡洋艦):20サンチ(センチ)砲、排水量8000トン~15000トン、装甲は薄いが高速。
*軽巡(軽巡洋艦):15.5サンチ(センチ)砲、排水量3000トン~7000トン、
第八艦隊司令部(海軍中央も)は今回の連合軍は威力偵察では?兵力も2000程度(実際は5倍)では?連合軍の反攻は昭和18年(1943)中頃では?と想定していたという。
第八艦隊ではかき集めた巡洋艦部隊をガ島泊地の連合軍上陸部隊に突入させて撃破し、陸戦隊(海軍の陸上戦闘部隊)を上陸させれば撃退出来る、と思った。
敵は撤退しはじめている。という誤情報もあった。日本の貧弱な情報収集と分析力だった。
*威力偵察:機会をとらえて敵と交戦して、敵の装備、配置、兵の士気や練度、補給体制、などを探ること。
話をもどす。
三川艦隊は急ぎの寄せ集め艦隊だった。艦隊の作戦参謀、神(かみ)大佐が作戦を立案した。
1、攻撃目標はガ島泊地の連合軍上陸部隊。
1、合同訓練を一度も実施したことがないので複雑な艦隊運動は割け、各艦距離1200mの単縦陣(縦一列に並ぶ陣形)、一航過、(反転しての再攻撃はしない)とした。
当初、足の速い巡洋艦の長所を生かして36ノット(時速67km、極めて高速)で突入の計画だったが、軽巡「夕張」の故障で26ノット(時速48km)に変更した。
1、敵味方識別のためマスト両舷に白色吹流を掲げる
1、右舷側への雷撃が多いと想定して予備魚雷を全て右舷側に移す。
1、敵の空襲をさけるため、夜間に突入、夜明け前に戦場離脱する。
米軍が上陸した8月7日、三川艦隊はラバウルを出撃、南下する。この日、ラバウルの陸攻隊がガ島の連合軍上陸部隊を空襲した(前回の記事)。
艦隊は途中、連合軍機の執拗な接触をうけたが欺瞞行動をとり、幸運にもガ島接近を敵に悟られることはなかった。
翌8月8日の日中にラバウルの陸攻隊が再びガ島の連合軍上陸部隊を空襲した。
同日、8月8日23時31分、三川艦隊は無事サボ島の南に達した。連合軍上陸部隊の艦船がたむろするルンガ泊地は目前だ。
「全軍突撃せよ」 艦隊は26ノット(時速48km)に増速すると長いウェーキ(航跡波)をひいて単縦陣で突進した。
この時、連合軍の警戒部隊(巡洋艦部隊)は南方部隊、北方部隊、東方部隊、の3群に分かれていた。
突進する三川艦隊は右舷前方に複数の艦影をみとめた(レーダーを装備していないので見張り員の目視)。
23時44分、あらかじめ発進させていた水上偵察機が吊光弾(照明弾)投下。
吊光弾にてらされた艦影、それは連合軍の南方部隊だった。この日、
連合軍艦隊は誤情報から日本艦隊の来襲はないと思っていた。
さらに指揮官クラッチリー少将は会議に出席するため重巡「オーストラリア」で艦隊をはなれていた。
敵味方の識別にモタモタしている連合軍艦隊に三川艦隊は発砲、23時47分、距離3700mから旗艦「鳥海」のはなった魚雷のうち2本が戦闘態勢をとろうとしていた豪重巡「キャンベラ」に命中。敵発見から3分後だ。
日本海軍の必殺兵器「九三式酸素魚雷」だ。魚雷は日本海軍が世界をリードした兵器だ。「九三式酸素魚雷」は炸薬量が大きく、速度が速く、射程が長く、雷跡が発見しにくい。2本も命中すれば重巡は助からない。
<探照灯照射する旗艦「鳥海」、魚雷が命中した豪重巡「キャンベラ」、九三式酸素魚雷>炎上する「キャンベラ」に三川艦隊の砲弾が集中する。「キャンベラ」は短時間で戦闘力を奪われた。
さらに米重巡「シカゴ」も多数の命中弾をうけスコールに退避(大破)、
米駆逐艦「パターソン」は最初に三川艦隊を発見、砲撃するも、軽巡「龍田」の照射砲撃をうけ撃退された(パターソン中破)。
約10分ほどの戦闘で三川艦隊は連合軍南方部隊を撃破した。
三川艦隊はサボ島東をグルリと回り北に転針した。敵艦隊を撃破した(満足した?)と思ったのだろう。
すると炎上、漂流してきた「キャンベラ」との衝突を避けるため重巡「古鷹」が左に転舵、後続する軽巡「天龍」、同「夕張」も「古鷹」に続いた。
北行する三川艦隊は平行する2列の艦隊になった。すると先行する旗艦「鳥海」が左舷5000mに別の艦影を発見、連合軍の北方部隊だった、
この時、転針した重巡「古鷹」、軽巡「天龍」、同「夕張」の3艦は敵艦隊を挟撃する位置になっていた。
すなわち2列になった三川艦隊の間に敵北方部隊があったのだ。
このとき北方部隊の先頭、米重巡「ヴィンセンス」は砲撃準備を整えていた、
仮眠中の「ヴィンセンス」艦長リーフコール大佐(北方部隊指揮官)はたたき起こされた。見張員が南方部隊の砲火を見たのだ。
連合軍の各艦隊間の連絡は悪く、南方部隊の状況が不明だった。リーフコール大佐は遠くに見える火炎は友軍のガ島への砲撃か?侵入した日本の駆逐艦と南方部隊との戦闘か?と思ったという。
その時、北方部隊は右舷から探照灯の照射を受けた。照射したのは混乱した連合軍艦船だと大佐は判断、その艦に「照射を止めよ、われ味方なり」と通報、さらに旗流信号をあげた。
そして20ノット(時速37km)に増速して南方部隊の加勢に向かおうとした。
しかし、探照灯を照射しながら26ノット(時速48km)で接近していたのは三河艦隊の重巡「鳥海」+重巡3隻だったのだ。
23時53分、「鳥海」は一番近い北方部隊のしんがりの米重巡「アストリア」に対し距離5000mで発砲、すぐに命中弾を得た。
また、「鳥海」の後続の各艦も次々と「アストリア」に対して砲撃を加え、「アストリア」は一方的に攻撃を受けた(翌朝沈没)。
「アストリア」を撃破したと判断した鳥海は2番艦米重巡「クインシー」に対して砲撃を開始、3斉射目で「クインシー」は艦中央部の艦載機に直撃弾を受け炎上。
これが標的となり「クインシー」は多数の命中弾を浴びた。そこへ分離していた古鷹以下3隻が左舷方向から接近してきた。
古鷹隊は火炎をみとめ敵艦隊めがけて突入して来たのだ。北方部隊は左右からに挟撃されることになった。
「クインシー」は「ヴィンセンス」とともに北に退避しようとするが古鷹隊は「クインシー」に対して砲雷撃を開始、「天龍」と「夕張」が放った魚雷が「クインシー」の左舷に命中。
「クインシー」は反撃を試みるが、炎上した艦載機が好目標となって砲弾が集中し戦闘力を奪われた。翌9日午前0時35分、「クインシー」沈没。
残った先頭艦「ヴィンセンス」も三川艦隊の砲撃を浴び、これまた艦載機が炎上。集中砲火を浴びるが反転して「衣笠」(きぬがさ)を砲撃、「衣笠」は操舵装置に損害を受けた。
その直後、鳥海隊から発射された魚雷3本が立て続けに命中、さらに「夕張」が発射した魚雷のうち1本が命中し航行不能に陥った。ヴィンセンスはこの後も砲撃を浴びた。翌9日0時50分に転覆沈没した。
重巡「衣笠」がツラギ港外の輸送船団目掛けて長距離調定した魚雷4本を発射したが、命中はなかった。
<ヴィンセンス沈没>三川艦隊の損害は「鳥海」の一番砲塔が『アストリア」の主砲弾直撃で破壊され、後部艦橋、作戦室には『クインシー」の主砲弾が命中するも不発(幸運)。
「青葉」も被弾し魚雷発射管で小火災が発生。また、連合軍北方部隊の駆逐艦2隻は南方部隊の応援に駆けつけるため航行していたが、日本艦隊と高速ですれ違った。
あわてて反転してこれを追うも間に合わず、両艦とも戦闘に参加できなかった。
敵艦隊を一蹴した三川艦隊は北上、午前0時23-25分、三川長官は「全軍引け」を下した。
8月8日23時44分の敵発見から約40分後だった。実質20~30分ほどの戦闘だった(ボクの想像)。
三川艦隊は疾風のように現れて、疾風のように戦い、疾風のように去っていった。三川艦隊の一方的な戦術的勝利だった。
戦果を確認すると実際よりも3倍に膨れ上がった。どこの軍隊でも同じだ、昼間でも戦果確認はムズカシイ。ましてや夜戦である。正確な戦果確認などまず無理だ。
実際の結果は連合国重巡4隻撃沈、同1隻大破、駆逐艦2隻中破。
日本側の損害は旗艦「鳥海」小破、「青葉」「衣笠」が被弾するも軽微(これらは戦後、両国の資料を突き合わせて判ったものだろう)
この海戦を「第一次ソロモン海戦」という。
もうひとつ、帰投途中に米潜水艦の雷撃をうけ重巡「加古」沈没。
1, 日本海軍は数的劣勢を補うため数多くの手段を模索した。夜戦に力を入れたのもそのひとつだろう。イレギュラーな夜に活路を見出そうとした。
三河艦隊はツキに恵まれたが夜戦を重視した日本海軍の真価が発揮された海戦だった。太平洋戦争でこれだけの勝利は二つしかない。もうひとつは「ルンガ沖夜戦」。
どちらも戦術的勝利ではあるが戦略目的を達成できなかった。皮肉である。
1,連合軍艦艇はレーダーを搭載していたが島影と重なり三河艦隊を発見出来なかった(三河艦隊の幸運)。三河艦隊にはレーダーはない。
1,三河艦隊は連合国警戒部隊を屠ったにもかかわらず、その先にいる輸送船団を攻撃することなく引き返した。当初の目標を攻撃しなかった。
実は三河艦隊でも「再突入して敵輸送船団を攻撃すべし」と「敵機の空襲を受ける前に離脱すべき」が衝突したが離脱案が勝った。
米空母が近くにいるという情報があった。
日本海軍には「戦うべきは軍艦で、丸腰の町人(輸送船)は二の次」という思いがあった。また、日本軍は情報収集や補給を軽く見る傾向があった。
「素人は戦闘を語り、玄人は兵站を語る」この言からいえば日本軍は「素人軍隊」ということになる。
*兵站とは作戦を行う 部隊 の移動と支援を計画し、また実施する活動 ..
1,「新しく軍艦を作るのは大変だから沈めないように」と,日本海軍の高位の人が言ったという。そのとおりだが、軍艦を失うのを恐れて戦略目的を諦めるのは本末転倒である、お粗末。
今回の三川艦隊の泊地突入回避や真珠湾攻撃時の第三次攻撃の取りやめ、などに影響を与えたといわれる。日本は貧しかったのだ。
1,もし、この時、三川艦隊が泊地に突入していたら、ガ島泊地の連合軍上陸部隊に深刻な損害を与えただろう(ボクの想像)
離脱が遅れて米機の空襲をうけ損害を被ったとしても突入する価値はあった。結果を知っているから言えるのかもしれないが・・・
1.連合軍は8月7日~8日の日本機の空襲で疲弊していた。物資の揚陸を急ぐことを優先していたという。
もし補給が続かないような事態になったらジャングルでのゲリラ戦も覚悟していたという。
1, この海戦に作家の丹羽文雄は報道員として、重巡「鳥海」に乗艦して参加、取材している。それを記事にしたのが小説『海戦』である。
戦後、丹羽文雄は昭和を代表する作家、文壇の大御所的存在になった。文化勲章叙勲。
神重徳(かみ しげのり)大佐のこと:明治33年(1900)鹿児島生まれ。海兵(海軍兵学校)第38期、海大(海軍大学)卒。この時42歳。
今回の三川艦隊の作戦を立案した作戦参謀。「第一次ソロモン海戦」終了後「これだから海戦はやめられないさ」と言ったという。

海軍内で一目も二目も置かれるようになったのだろう。レイテ沖海戦、さらに戦艦「大和」の沖縄特攻も立案した。
どちらも米上陸部隊に戦艦を突入させ、その巨砲で撃破するというものだった。
規模はちがうが「第一次ソロモン海戦」の再現を狙ったような作戦だった。
敗戦後、残務処理のため北海道へ飛行機で移動中、事故にあい海に投げ出された。生存の可能性があったのに死を選んだという説がある(力つきて死んだという説もある)。
それにしても「神・かみ」とはスゴイ苗字だ。「第一次ソロモン海戦」は神がかっていた。
イラストは参考にした写真よりちょっとハンサムに寄ってしまった。現在でも通用する髪型、オシャレだったのかもしれない。
次回「その四・壊滅」に続く→
- 2023/09/18(月) 08:53:32|
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残暑お見舞い申し上げます。
これだけ暑い夏になると人間の体も変化するんじゃないだろうか?
環境に順応して耐熱性の体になるんじゃないだろうか?
思えば人間の体もまんざらでもないなと思う。
冬の0度から夏の40度(場所によっては50度)まで温度差40度をなんとか凌いでいるのだから、
「ううっ寒い!」という冬も良いなと思ったりする、こう暑いと、
ということで、
前回は「1942年(昭和17年)11月14日、近藤信竹中将の指揮する高速戦艦「:霧島」、重巡洋艦:「愛宕」、「高雄」を主力とする日本艦隊は南下した。」ところまで書いた・・・
そこから時をもどす。6月のミッドウェー海戦の日本機動部隊の大敗から2か月後、
1942年(昭和17年)8月7日、 早朝、米海兵隊第一師団、約11000はソロモン諸島の、ツラギ島、ガダルカナル島、ガブツ島、タナンボゴ島に上陸した。
ツラギ島の日本軍守備隊は全滅(玉砕)、ガダルカナル島の飛行場設営隊と警備部隊は島の西へ退避、完成寸前の飛行場は占領され、米軍はヘンダーソン飛行場と名付けた。反攻のはじまりだった。
日本側もすぐに反応する。
この日、ツラギ島からの急報をうけ、ラビ(東部ニューギニアのミルン湾にある)攻撃に向かうラバウルの一式陸攻27機(陸用爆弾のまま)と九九式艦上爆撃機9機を急遽、ガ島泊地の連合軍上陸部隊の攻撃に向かわせた。
その陸攻隊の護衛に台南空の零戦17機が随伴した。これは当時のラバウルの全力に近い(海軍の航空作戦の要であったラバウルの航空戦力の少ないこと)。
「機動部隊は負けたらしいが、基地航空隊は健在だ、腕が鳴る」と搭乗員は思っていたかもしれない(ボクの想像)。

その零戦17機のなかに第三中隊第二小隊長として坂井三郎一飛曹がいた。すでに坂井は海軍戦闘機隊ではきこえたエースパイロットだった。このころ台南空零戦隊の実力はピークにあった。
米空母がいるという情報だったガ島上空で坂井が見たのは輸送船や舟艇の群れだ。それは坂井が今までみたこともない景色だった。瞬時に「この戦争は負けだな」と思ったという。

戦闘のさなか坂井は8機の敵戦闘機を見つけ後方から接近する。敵は気づいていないと思った。
ところがそれはガ島上空支援の空母「エンタープライズ」と同「サラトガ」のSBD爆撃機の編隊だった。
坂井の誤認だったのだ。坂井の零戦が後方から高速で近づいてくるのをSBD編隊はわかっていた。
(SBD爆撃機は比較的身軽なので戦闘機以外の爆撃機(陸攻)などの迎撃をしたと思われる。)
SBDは後方に2丁の機関砲を備えている。
坂井が誤りに気が付いたときはすでにおそく、SBD編隊の計16丁のブローニング12.7mm機関砲が坂井機に狙いを定めていた。坂井は全機銃(4門)の引き金を引きっぱなしにして突進した。相打ちを狙ったのだ。
坂井はこの戦闘で瀕死の重傷を負い、意識が遠のくなか愛機をだましながらら単機、ラバウルに生還する。世界中で読まれた坂井の名書『大空のサムライ』のクライマックスである。
*SBD:ダグラス・ドーントレス急降下爆撃機。単発単葉複座、引き込み脚、主翼後縁にダイブブレーキをもつ。ミッドウェー海戦で日本の4隻の空母を撃沈した。
この日、日本の攻撃隊は米機60機の迎撃を受けた。戦果は米駆逐艦一隻小破、戦闘機11機・SBD艦爆1機を撃墜した。日本側の損害は陸攻5機、零戦2機。陸攻隊は命中率の悪い水平爆撃だった。
九九式艦爆9機は米駆逐艦マグフォードを大破させたが4機を失い5機が不時着水、9機全てが未帰還となった。
不時着覚悟の出撃だったという。

翌8月8日、陸攻23機、零戦15機、がガ島上陸部隊を攻撃、駆逐艦「ジャービス」大破、陸攻隊は雷装していた。
陸攻一機が体当たりして輸送船「ジョージ・F・エリオット」大破、船体放棄させるも陸攻18機未帰還、零戦1機自爆。
米空母艦載機の迎撃と対空砲火による損失である。
ガ島上空の航空支援(直掩)は空母「サラトガ」と「エンタープライズ」の艦載機が担当した。
陸攻隊の損失は78%に達する。生き残った陸攻もほとんどが被弾して修理が必要だった(ボクの想像)。
このころの陸攻隊は練度が高かったにもかかわらず開戦以来の陸攻隊の損害として最大のものになった。ショックだったろう。
防弾装備をもたない日本機の弱点が露呈した。また、敵戦闘機の一撃離脱攻撃は凄腕零戦隊の護衛をもってしても防ぐことが難しかったのだ。
また、日本海軍は双発攻撃機の雷撃(魚雷攻撃)を多用した。雷撃は敵艦に肉薄する必要があるが、双発機は大きいから対空砲火の餌食になりやすい。
米軍はこれまでの教訓から対空砲火の強化をはかっていたのだ、
この日の陸攻隊の写真が存在する。米側が撮影したものだ。
ルンガ沖の凪の海面を激しい弾幕をついて超低空で突進する一式陸攻をとらえたものだ。
ボクはこの写真を見た時、鳥肌が立った。敵の対空砲火の曳光弾は全部こちらに命中するように見えるという。
ガ島の日本兵もこの光景を見たらしい。感動したという。
二日にわたるラバウルからの攻撃は連合軍に有効なダメージを与えることは出来なかったが、ツラギ島沖の米機動部隊の指揮官、フランク・J・フレッチャー少将は不安にかられた。
それは8月7日~8日の日本の攻撃隊が零戦の護衛をともなっていたことだった。敵空母が近くにいると思った。当時の単発戦闘機の常識からしてラバウルから飛んできたとは考えられなかった。
このままではミッドウェー海戦での日本機動部隊と同じ立場になる。まごまごしていると日本空母からの攻撃を受けるぞ、と思った。
フレッチャーはこれまでの日本機動部隊との戦闘で空母「レキシントン」同「ヨークタウン」を失っている。日本の艦載機の優秀さを知っていたのだ。
なかば独断でガ島泊地の上空援護をとりやめ、退避した。
この時、ガ島の制空権は日本側にあったのだ。
*一式陸攻(一式陸上攻撃機):三菱が開発、昭和16年(1941・開戦の年)6月から運用開始した新鋭の双発攻撃機。搭乗員7~8名。
雷撃(魚雷攻撃)も出来る爆撃機、海軍はこれを攻撃機と呼んだ。陸海軍の派閥意識もあって爆撃機と呼びたくなかったのだろう(ボクの想像)。
想定される戦場は太平洋、双発機にしては長大な航続距離、優秀な運動性を海軍は三菱に要求した。
日本海軍の仮想敵は米海軍で、太平洋を渡ってくる米主力艦隊を内南洋で日本主力艦隊で迎え撃ち、一大海戦をしてこれを撃滅するという構想であった。
日露戦争の「日本海海戦」の大勝利の影響を受けていたにちがいない(ボクの想像)。
日本海軍は米海軍との数的劣勢を補うための方法を数多く思案した。
一式陸攻の大きな航続距離もその目的にあった(ボクの想像)。
その代償として防弾装備を省略、爆弾搭載量が少なかった。被弾するとすぐに炎上することから「一式ライター」と揶揄された。
いやな言い方になるが兵士一人当たりの命の値段が安い軍隊は結局弱い、とボクは思う。
さらに時をもどす。昭和16年(1941)12月の開戦以来、世界が日本軍の強さに驚いた。極東の島国、出っ歯で眼鏡の小さな日本人に驚いたのだ。日本への偏見と認識不足だった。
実は日本も日本軍の強さに驚いた。
日本軍の第一段作戦は石油などの南方の資源の確保だった。連合国からの経済制裁、石油の禁輸が直接的な開戦理由だったのだ(ボクの想像)。
燃料が枯渇すれば、軍艦、飛行機、戦車、自動車・・・は動けなくなる。軍にとって死活問題だ。
第一段作戦は想定以上にとんとん拍子で達成できた。
第二段作戦は南はソロモン諸島を攻略して米豪の連絡を遮断、アリューシャン列島を攻略して北からの脅威に備える。東はミッドウェー島を攻略し、さらにはハワイを占領して講和に持ち込む、というのが連合艦隊司令長官、山本五十六の考えだったと言われるが・・・
実は、日本には第二段作戦のハッキリした戦略構想がなかったという説もある。
また、戦場になった地域の人たちのことを日本(日本軍)はどう考えていたのだろうか?
現場の住民にとっては迷惑な戦争だ。
日本語や日本の歌を現地の人に教えたというが、見下した感があったのだろう(ボクの想像)。
西欧列強の植民地意識と大差なかった。アジアの解放という美旗も戦争に勝つための方便だった(ボクの想像)。
あげくソロモン諸島の島民は連合軍寄りで日本軍の動向を監視、報告した。
日本海軍がガ島に飛行場を設営しようとしたのは米豪間の遮断のためだった。
しかし、日本海軍の要衝ラバウル(ニューブリテン島)からガ島までは直線距離で1000km、
足の長い零戦の作戦可能範囲ギリギリであった。ガ島上空での滞空時間は15分だったという。それを過ぎると残りの燃料では帰投できないのだ。言い方を変えれば足の長い零戦と搭乗員の疲労にもたれかかった計画とも言えた。
開戦以来の海軍航空隊の活躍は零戦の存在にあった。日本軍機はほとんどが防弾装備をもたず、敵戦闘機の襲撃をうければ容易く撃墜されてしまう。
それを防ぐ唯一の手段が職人芸のパイロットと高性能(攻撃に偏った)な零戦の存在だった。
「ガ島の戦い」は米軍に占領された飛行場(米側はヘンダーソン飛行場と呼んだ)を奪還しようとする日本陸海軍とそうさせまいとする米豪軍との争奪戦だった。
次回、「修羅の島(その三・三川艦隊)」に続く→
- 2023/08/29(火) 07:40:16|
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